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ビートたけしさんといえば日本を代表するお笑い芸人です。

通称”たけしさん”と呼ばれ、日本国外問わず多くの方から尊敬されています。

くだらない無邪気な芸風と、「北野武」を名乗っての映画監督としての活動のギャップが凄まじいです。

タレントとしても文化人としても超一流のビートたけしさんですが、実は過去に大きな事故を起こしています。

たけしさんは若い頃にバイク事故を起こしており、それによって顔の表情が若い頃と比べて大きく変化しています。

今日は若い頃のイケメンなビートたけしさんと、1994年に起こしたバイク事故について書いてみたいと思います。

ビートたけしのバイク事故の真相。赤いスクーターと事故場所の謎

ビートたけしさんは1994年8月にバイク事故で大ケガを負い、世間を心配させました。

1994年、8月2日の深夜1時40分、原付バイクで東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中、ガードレールに激突し大規模なバイク事故を起こしました。

事故を起こしたのは深夜帯でしたが、事故の前は南青山の日本料理店と西麻布の焼き鳥屋で日本酒4合ほど飲んでいたそうです。

その後、一旦、別宅として使用していた乃木坂の事務所に帰宅してシャワーを浴び、再び原付きバイクで外出した矢先、新宿区の路上でカーブを曲がりきれず、ガードレールの鉄柱に激突し、4メートルも飛ばされてしまったのです。

事故ったビートたけしさんは、すぐに東京医科大学病院に緊急搬送されました。発見当初はスクーターの上でいびきをかいていたそうです。

運よく一命は取り留めたものの、「頭蓋骨陥没骨折」など重傷を負ってしまったのです。

たけしさん本人は後に「普通なら即死、良くて植物状態」と語るほど危険な事故だったそうで、一部の関係者以外は面会謝絶、予断を許さない状態でした。

退院後の会見でのたけしは顔面麻痺。変化した顔もいつものジョーク

病院に搬送されて2ヶ月後、退院した後は記者を集めて会見を開きました。

たけしさんの顔は、事故を起こす前とは変わってしまっていました。

口は大きく曲がり、さらには目の焦点が合っておらず、とても痛々しい姿でありました。

それでもたけしさんは会見で、

治らなかったら、芸名を顔面マヒナスターズにするよ

(死について考えることができたのは)いい勉強になった

(事故は)軍団がブレーキに仕掛けしたんじゃねえかと思ってるんだ

「頭に入っているボルトのせいで金属探知機に引っかかる」

と気丈なコメントをしてファンを安心させていました。

実はこの事故、その後に多くの不可解な点が発覚してます。

ビートたけしのバイク事故の真相。サングラスに赤いスクーターにブレーキ跡なし

不可解な点というのは、たけしさんが乗っていたバイクが趣味に合わない”赤のスクーター”だったということです。

そして、事故った場所は緩やかなカーブだったということ、また”ブレーキの跡がなかった”のです。

一部では「自殺未遂だったのではないか?」と言われたり、「女に赤いスクーターをプレゼントしに行く途中だったのではないか?」など、いろいろな疑惑が出ました。

さらにサングラスを着用していたなど、ツッコミ所満載でありました。

事故当時は、

その部分だけはほとんど記憶がない。事故は自分の不注意だった。

と発言してるので、自殺というのもただの都市伝説です。

スクーターは前日に運転手を務めるたけし軍団員、負古太郎(まけ ふるたろう)に買い与えた物だと発覚しています。

また、当時交際を噂されていた細川ふみえに会いに行く途中ともされており、この一週間前に不倫密会現場が写真誌にスクープされていたのは事実であります。

ビートたけしは事故当時はうつ病状態だった?彼女(細川ふみえ)に会いに行った説

後に、たけしさん本人が事故当時はうつ病状態だったことを明かしています

そして、恋人と噂されていた”細川ふみえ”さんに会いに行く途中だったという説もあるということで、何か恋のことで悩んでおかしくなっていたという説が強いです。

ちなみに当時から細川さんは、

たけしさんは私のマンションに一度も来たこともないし、場所さえ知らないんです

と、たけしさんとの交際を否定しています。

しかし、事故の1週間前、「スーパーJOCKEY」細川ふみえさんが、たけしさんのマンションに出入りしているところを、写真週刊誌にスクープされており、信憑性は高いです。

また、事故当日に細川さんは翌日のテレビ出演のため赤坂のホテルに泊まっており、その日たけしさんがスクーターを走らせた場所と方向と一致しているのです。

若い頃のビートたけしのイケメンぶり。昔の写真は貴重!

事故によって顔が変形してしまったビートたけしさん。

今でも表情豊かで愛くるしい姿で愛されていますが、若い頃はイケメンとして知られてました。

たけしさんは子供の頃から工作が得意な芸術肌でありながらも、学生時代は野球やボクシングに励むなど、活発な若者でありました。

高校を卒業した後は現役で明治大学の工学部(後の理工学部)機械工学科に進学するなど、勉強もよくできる方でした。

お笑いの世界で成功し、映画の世界でも成功したという点、ビートたけしさんは隙のない完璧なイケメンなのです。

学生時代のビートたけし。子供時代から大学入学まで。偉大な母

足立区出身のビートたけしさんは、出演してるメディアでも故郷の思い出話を頻繁にしていました。

昔の日本人は近所付き合いを大切にしており、多少値段が高くても仲の良い八百屋などでカッコつけて買い物をするのが当たり前だったとおっしゃっていました。

たけしさんは自我共に認めるマザコンであり、会うたびに母が20万、30万を催促してきたエピソードは有名ですね。

教育熱心で、貧しい家庭ながらも「飯に金をかけるよりも参考書を買う」と兄弟は大学に送った母としての実力は確か。

ビートたけしが仕事で成功すると、会うたびに「病院代をくれ」「今までお前を育てた費用だから」「水道の修理代をくれ」と、お金を請求してきたことで関係は悪化してしまったそうです。

母が病気で入院し、亡くなる2年前にお見舞いに行った際に、憎まれ口を叩かれながらも帰り際に姉から見覚えのない自分名義の通帳を渡され、中身を見ると母に渡していたお金が丸々貯蓄されていたそうです。

たけしさんは母が亡くなった最後まで「母親には敵わねぇ」と仰っています。

この経験が後の「30歳過ぎてまで親を許せないやつはバカだ」という有名な名言に繋がっているのです。

ビートたけしの昔のコンビ時代。相方・カーキー(和樹)

若い頃のビートたけしさんはお笑いコンビ「ツービート」として活動していました。

当時のたけしさんはツッコミで、ネタは相方のきよしさんが書いていました。

夜のお店ねなどで営業していたそうですが、度々お店やホステスをイジり倒し揉めていたそうです。

20歳過ぎから長く下積み生活を送っていたビートたけしさんですが、1980年からの漫才ブームでは、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げました。

たけしさんは若い頃から内面のワイルドさが前面に出ており、男性を中心に多くのファンを獲得しました。

ビートたけしの年齢と経歴。映画で成功した時期

ビートたけしさんはお笑い芸人として多くの金字塔を打ち立てます。

20代の若者の代表として多くの若者の共感を獲得し、さらにはお笑いブームを兼任し日本中のお笑いの素晴らしさを浸透させました。

また、お笑い芸人としての活躍だけでなく、若くして映画監督・北野武としても活躍し成功を収めています。

ビートたけしさんの経歴を年齢ごとに追っていくと、若くして多くの成功を収めたことがわかります。

ビートたけしの芸人・映画監督としての経歴

1947年0歳東京都足立区に生まれる
1965年18歳足立高校卒業。明治大学入学
1972年25歳浅草のフランス座で芸人見習いとして働き始める
1973年26歳ビートきよしと「ツービート」結成
1975年28歳「ライバル大爆笑!」でテレビ初出演
1980年33歳女性漫才師の幹子氏と結婚
1981年34歳「オレたちひょうきん族」出演開始
1986年39歳フライデー襲撃事件
1989年42歳「その男、凶暴につき」映画監督デビュー。
1993年44歳映画「ソナチネ」が世界で高評価
1994年45歳バイク事故。
1997年48歳映画「HANA-BI」ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞
2000年51歳映画「バトルロワイヤル」出演。
2004年55歳明治大学の知名度アップに貢献したとして「特別卒業認定証」
2010年61歳フランス芸術文化勲章コマンドゥール受賞
2018年69歳旭日小綬章を受章。オフィス北野から独立しパートナーと立ち上げたT.Nゴンに所属。

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